第7号 日本の年金は、なぜAIに張れないのか——294兆円の配分表から、フィジカルAIの遅れまでを一本の線でつなぐ
第2章目標収益率の差——「実質1.9」と「名目7」は何が違うのか

目標収益率を並べると、数字の桁が違って見えます。
GPIFは実質1.9パーセント、CalPERSは名目6.8パーセント、CalSTRSは名目7.0パーセント、米公的年金の中央値は名目7.0パーセントです。
ただし、ここには2つの罠があります。
ひとつめは、名目と実質の混在です。
GPIFの1.9パーセントは「賃金上昇率を超えて稼ぐ幅」です。
CPPの主計官が置く前提は実質4.05パーセント、ノルウェーは実質約3パーセント、AustralianSuperはCPIプラス4パーセント、Yaleは支出率5.25パーセントプラスインフレです。
実質で揃えて比べても、日本は最も低い水準にあります。
ふたつめは、負債側の構造です。
米国の公的年金は完全積立型に近く、給付債務を運用で賄う前提のため、高い割引率を置かないと積立不足が膨らみます。
CalPERSの積立比率は85パーセント、CalSTRSは79パーセントです。
高い目標は「攻めたいから」ではなく「置かざるを得ないから」という側面があります。
一方、日本の公的年金は賦課方式が基本で、積立金は給付の補完です。GPIFの目標は年金財政の均衡に必要な水準から逆算されており、その水準が実質1.9パーセントでした。
この目標は伝統的な4資産均等で達成できる設計であり、実績はそれを大きく上回ってきました。
つまり「日本は目標が低い」は事実ですが、「だから運用が下手だ」は誤りです。25年の実績は年率4.6パーセントで、目標を2倍以上上回っています。
問題は別のところにあります。
目標が低く、伝統的資産で達成できてしまうため、プライベート資産へ踏み込む制度上の必然性が生まれないのです。
CalPERSやCPPは、7パーセント前後の名目目標を上場株と債券だけで達成するのが難しいからこそ、PEや実物資産に3割から4割を振り向けています。
目標設計が、配分表の形を決めています。配分表の形が、VCへ流れる資金の量を決めています。これが本記事の一本目の線です。
もちろん、設計だけがすべてではありません。
運用委員会の構成、受託者責任の解釈、失敗が個人の責任として問われやすい組織文化といった要因も、配分の慎重さに効いています。
ただ、それらは設計を変えずに動かすのが難しく、設計を変えれば動きやすいものです。
だから本記事は設計を主語にしています。
企業年金についても同じ構造です。
予定利率2.14パーセントは、一般勘定(生保の保証利率商品)と債券で相当部分を賄える水準です。
株式22.7パーセント、PE2.81パーセントという配分は、この目標に対しては合理的な帰結です。
5. 年金からVCへ——2.6パーセントと25.4パーセント

配分表の差は、VCに流れる資金の出資者構成に、そのまま現れます。
金融庁が2026年6月18日のベンチャーキャピタル有識者会議で示した資料によると、日本のVCファンドへの資金供給者(2025年)は、銀行・信用金庫・信用組合35.8パーセント、事業法人25.1パーセント、海外10.2パーセント、保険会社7.9パーセント、政府・地方公共団体7.3パーセントと続きます。
年金基金は2.6パーセント、大学・学術団体は0.9パーセントです。
米国はどうか。
同じ資料が引くPreqinの集計(2010年から2020年ビンテージの米国VCファンド)では、財団20.2パーセント、私的年金基金13.0パーセント、公的年金基金12.4パーセント、寄付基金(大学等)9.4パーセントです。
年金だけで25.4パーセント、財団と大学基金を足すと55パーセントになります。
日本のVCの資金源は、銀行と事業会社で6割です。米国は年金・財団・大学基金で5割強です。
この違いは、VCの規模と投資期間に効きます。銀行や事業会社の出資は、規模が小さく、事業シナジーや取引関係が目的になりやすい。年金や大学基金の出資は、規模が大きく、10年超の長期資金です。
米国の公的年金だけで、2025年にVCへ112億ドル(約1.7兆円)のコミットメントを行ったという集計があります。
日本のスタートアップ調達総額の2倍を、米国の公的年金がVCに約束した勘定です。
日本側の受け皿にも問題があります。
2025年に国内で組成されたVCファンド150本のうち、100億円を超えるものは10本、6.7パーセントです。
米国では1億ドル超のファンドが2割強を占めます。
仮にGPIFが数千億円を国内VCに振り向けようとしても、それを吸収できるファンドがほとんど存在しないのです。
管の入口(年金の配分)と出口(VCの受け皿)の両方が細い。これが二本目の線です。
6. VC市場の規模——63倍と10倍

日本のスタートアップ資金調達額(スピーダ「Japan Startup Finance 2025」、デット除く)は、2025年に7,613億円でした。
2022年の9,909億円をピークに、3年連続で減っています。
対GDP比は0.11パーセントです。
米国のVC投資額(PitchBook-NVCA)は、2025年に3,200億ドルで15,352件でした。金融庁の算出では対GDP比1.07パーセントです。
1ドル150円で換算すると、米国は約48兆円、日本は約0.76兆円。金額で63倍、対GDP比で約10倍の差です。
他国と並べると、欧州は440億ドル(Atomico集計)、イスラエルは156億ドル、インドは105億ドル、韓国は13.6兆ウォン(約97億ドル)です。
日本の約51億ドルは、人口が日本の12分の1ほどのイスラエルの3分の1、韓国の半分です。
2026年上半期は、日本が3,789億円で前年同期比12パーセント増でした。
ただしSakana AIの310億円を除くと2パーセント増です。
同じ半年で米国は4,127億ドルを投じ、2025年通年をすでに3割上回りました。
うち86パーセントがAI関連です。
もうひとつ、投資のステージ構造も違います。
経済産業省の資料によると、日本のVC資金供給はアーリー期が35パーセント、レイター期が23パーセントです。
米国はアーリー9パーセント、レイター68パーセントです。
日本は「小さく多く」、米国は「大きく少なく」張っています。
基盤モデルやヒューマノイドのように、量産前に数百億円から数千億円を要する領域では、この構造差が決定的です。
政府の「スタートアップ育成5か年計画」(2022年11月)は、2027年度にスタートアップ投資額10兆円を目標に掲げました。
2025年の実績は7,613億円で、目標の8パーセント弱です。
ユニコーンは政府定義で8社、CB Insightsの現役リストでは5社です。
同リストで米国は806社、中国は166社です。